大久寺の歴史

えんぎ
縁起 (お寺の成り立ち)
天正十九年(1591年)、徳川家康公の忠臣であった小田原藩祖大久保忠世公が建立したお寺です。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、豊臣秀吉公の小田原征伐後に家康公が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣城時代に帰依していた自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。
その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原藩を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、先祖菩提寺である大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。
大久寺境内の大久保家墓所。

大久保忠世

Tadayo Okubo [ 1532-1594 ]
 天文元年(1532年)、徳川家(松平家)の家臣である大久保忠員の長男として生まれます。
分家の出自ながら、蟹江城攻めや三河一向一揆、三方ヶ原の戦い等で挙げた数々の武功により家康公の忠臣としての地位を築き上げ、蟹江七本槍・徳川十六神将の一人に数えられました。「金の揚羽蝶」を象った奇抜な旗指物を用いていた武将としても知られています。
秀吉公と家康公による小田原征伐の後、後北条氏の後を受けて小田原城主、小田原藩祖となります。小田原の統治にあたっては、暴れ川であった酒匂川の治水事業に尽力しました。倹約の為に一か月のうち七日間食事を摂らない日を設けたという逸話も伝えられています。同じく徳川家臣であった本多正信の謀反に際し、後に忠世公がその帰参を助けたとされ、剛健で奇抜な武将としてだけでなく、知的で情に厚い人柄であったことが伺えます。

大久寺はこんなお寺です

徳川家康公の忠臣であった小田原藩祖大久保忠世公が建立したお寺で、400年以上の歴史があります。
大久寺境内には大久保家の墓所がございます。
お寺では珍しく、平らな土地にございますので、階段がありません。
ですから、ご年配の方でも安心してご利用いただけます。

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